「ファッションレイシズムとウェブマイノリティの戦い方」

―はじめに

 私は朝鮮籍の在日コリアン、在日朝鮮人の大学生です。
ファッションレイシズムという言葉は私の造語です。意味としては自覚があるかどうかはさておき、趣味的に行われた差別のことです。その起源は2002年に香山リカさんが唱えた「ぷちナショナリズム」(香山、2002)や、社会学者の高原基彰さんの言うところの「趣味的ナショナリズム」(高原、2006)から、よりウェブ的な性格を強め発展したものだと言えます。もちろんウェブ上でされる差別的な発言なども含めますが、近頃ではそういったウェブ上の差別的風潮がウェブ外にも広がりを見せています。そういう風潮を無視しないために、あえて広い意味を持つように造語を作りました。
これをレイシストと表現した理由は実際に「趣味的ナショナリズム」が発展し差別的言動が生じていることがひとつで、もうひとつは彼らのナショナリズム的な物がまがい物にしか見えないからです。
私はナショナリズムの全てを否定はしません。しかし、ナショナリズムに基づく行動のうち、レイシズムは特に糾弾します。この造語にはこういった気持ちが込められています。また、主に2ちゃんねる等のウェブ上で差別的な発言が蔓延していますが、著書「ウェブは馬鹿と暇人のもの」(光文社新書)で中川淳一郎さんはこのような発言含め、「『正義の行為」から逸脱した単なる『いじめ行為』」がウェブ空間を占めている(中川、2009)と指摘しています。「正義の行為」をナショナリズムとして見たとき、「いじめ行為」はレイシズムではないかと思います。つまり、よりウェブ的な「いじめ行為」の性格を得ているということです。
ファッションの部分に関しましては、「趣味的レイシスト」や「ぷちレイシスト」ではレイシズムに寛容すぎると感じまして、試行錯誤の末にたどり着いたものです。一応、ファッショというファシズム用語と趣味的や流行的という意味のファッションをかけて見たつもりですが、なんだか横文字にしてみただけの造語に軽さを感じる方もいらっしゃるでしょうが、この凡庸な頭からはこの程度の表現しか見つかりませんでした。ご容赦ください。
ウェブマイノリティというのも私が考えた概念ですが、捉え方としてはウェブ空間の中で劣勢な意見やそういった考えを持つ人を指しました。ウェブへの参加者が少ない集団のことではないということを強調しますが、これはウェブ参加者の数がウェブ上の意見の数を決めるわけではないからです。
本論の中で詳しく説明をしますが、ウェブ上の意見は優勢な意見がより優勢になりやすく、劣勢な意見がより劣勢になりやすいという特徴があります。そういった、ネット上で書き込まれた意見や立場が劣勢であり少数派であることを本論ではウェブマイノリティとしました。従来から、インターネット上での意見が劣勢なウェブマイノリティが現実社会においても不安を強いられることはありました。そして、現在、その不安は大きく顕在化してきています。それは、「在日」としての立場からは顕著です。

在日特権を許さない市民の会(以下、在特会)なる組織があります。彼らは2007年の発足以後、外国人に対する多くの差別的発言と行動を繰り返しながら、しかし、会員数は8000人弱になるまで増え続けています。彼らはyoutubeやニコニコ動画を舞台に自らの活動を誇らしげに発表し、些細な理由を見つけては排他的活動を繰り返しています。ウェブを活動に広く使っているところから、近年言われるネット右翼としての側面も強いです。また、社会的な背景を考えると、やはり「趣味的ナシャナリズム」から発展して生まれたと捉えるのは間違ってないと思います。さらに「新しい歴史教科書をつくる会」に代表される近年の草の根保守主義団体との関係性も強いです。
彼らは2009年、活動をより活発にしています。えてして、小熊英二さんが2003年に書かれた「いつかは『在日』や『外国人労働者』が、排除すべき<普通でないもの>として発見されるだろう」(小熊英二、2003)という「予言」が現実のものになりました。つまり、はじめは「サヨク」に対してのみ向けられた「ウヨク」の矛先がより拡大したということです。

彼らの見つける「些細な理由」はそこだけを見れば、正当性を感じられなくもありません。では、彼らは自らが唱える「逆差別を受けた被害者である市民」なのかというと、まったく違います。彼らの行動からはそのファッション性や趣味的部分という本質が感じられます。彼らの本質は「いじめっ子」であり、行動は「楽しみ」の範囲を抜け出ていないのです。私はそういった、趣味的なものによって起こす行動で広義に言えば人を傷つけるということを1番腹立たしく感じております。

彼らの主張や行動をひとつひとつ検証し、反論を用意することはそう難しいことではないと思います。実際、多くのブログやウェブサイトで行われていることでもあります。しかし、私は彼らとの反論合戦をして自分自身が「彼ら」を作る、また彼らの勝手な考えを固めるための、ある種の加速装置にはなりたくありません。
あまりに不毛だからです。
しかし、彼らに対して屈服するわけでもありません。
私はこの場で彼らの本質の「ファッション性」(趣味性)を暴き糾弾すること、そして対策を書くことに尽力したいと思います。そしてそれが、ウェブマイノリティの戦い方として一般化できるものまで昇華したいです。
ここまで、多分に感情的になってしまいましたが、本文に入った際はゆっくり論立てて話を進めたいです。
この文の構成としては「ぷちナショナリズム」等、彼らの起源がどういう風に生まれたかの検証から、その後どのように「ぷちナショナリズム」が発展したのかに対するウェブ論的なアプローチから彼らの本質を探ります。そしてウェブマイノリティの戦い方、対策を考えたいと思います。これは本論を書くために様々な知識を得るよう努力したための構成です。
本当は、いきなり対策だけをしてもいいのですが、それ以外の目的として私がこの度学んだことをまとめ知識として体系化したいと思っています。
そのため、「右傾化」や「ネット右翼」などとかなり順を追って話を進めております。また、いわゆる学問的な勉強を一夜漬けに近い形で学んだため異論や反論が起こらないようなものではないと思います。特になにかを定義付けているものは自分でも自信が無いです。また、私が「在日」である点とウェブを離れ実体化したファッションレイシズムである在特会への危惧から、どうしてもレイシズムを語りながらも「在日」を中心において議論と対策を論じています。つまり、ウェブマイノリティの戦い方としながらも中心においているのは「在日」です。よって、ウェブマイノリティの戦い方と対策の仕方などは、すべての被害者たるマイノリティに縦断して使用可能なものとして書かせていただきましたが、なにぶん偏っている点がありえます。裏を返せば、「在日」という具体例に基づいてのウェブマイノリティの戦い方が見えてくるはずです。この点を踏まえ分かりにくい点などに関しては、どうかご容赦ください。






―ファッションレイシズムの背景

・右傾化?
近年、若者の右傾化が騒がれています。「ぷちナショナリズム」という言葉が象徴的と言えますが、若者の右傾化を危惧する論評が出現したのは9.11アメリカ同時多発テロや2002年の日朝首脳会談から世間を騒がした、いわゆる拉致問題などが背景にあったと言えます。
香山リカさんは2002年に出版された「ぷちナショナリズム症候群」において、サッカーワールドカップやインターネットを引き合いに、若者の間で屈託がない「ぷちナショナリズム」が出現しているとしています。
ではこれが本当に若者の右傾化なのか?
多くの懐疑的な見解があります。社会学者の宮台真司さんはこういった「ぷちナショナリズム」なできごとは、ナショナリズムに基づいたものでなく、「お祭り」であったとしています。もちろん、「お祭り」をするうちに「本物」のナショナリズムになりかねない可能性も指摘しながら、今のところ問題はないとしています。(宮台、2006)
また、政治学者の菅原琢さんは日本の右傾化を叫ぶ理論は「ネットの見過ぎだろう」としてばっさりと否定しています。(菅原、2009)
彼は世論調査における、若者の憲法9条擁護率の高さを中心に細かいデータなどを用いながら右傾化はありえないとしています。「普通の有権者は政治に大して興味を持っていないし、保革イデオロギーに拘るのは一部の政治好きであり、首相になる前の安倍晋三は単なる『次の首相になるかもしれないと報道されているらしい人』でしかなかっただろう」という彼の主張は徹底したデータを用いていることからかなりの信憑性を感じられます。
私自身、一人の「若者」として同年代の政治的関心の無さは常に感じていますので個人的には頷ける点しかありません。
しかし、では、若者は右傾化していないのか?
私の考えとしては「若者の政治的関心は多くない。しかし、政治的関心のある若者は右傾化している。」です。
この要因としては、もちろん小林よしのりさんの「戦争論」や「ゴーマニズム宣言」などの著作に代表されるようなネオ・ナショナリズム的なものが若者層の需要に合致したという、従来から言われている指摘も的を得ていると思います。しかし、なぜそういったものが「若者」を引きつけたか?
社会学者の視点を取り入れ考えると、その関心、なぜ「若者」を引きつけたかの答えが垣間見えます。






・なぜ保守主義は若者を多く引きつけたか?
 社会学の見解では、新自由主義により脱工業化から社会流動化に社会が変革をする際に不安型ナショナリズム(高原、2006)が生まれ、不安を持ちやすかったフリーター等の若者がそれに引き込まれた。
 さきほどの問いに対してものすごく簡潔に、しかし難しいまま答えるとこうなります。
 これはどういうことか?
 今度は丁寧に説明します。軽く歴史なども交えながらになりますし、丁寧といってもなるべく簡単にと言う意味ですのでかなり大雑把になります。
 まず、必要な概念として日本が戦後、高度成長をする際に総中間層化→脱工業化→社会流動化の道を辿ってきたということです。
 かなり大雑把に説明すると総中間層化は衣食住の人並み的な生活を国民全てができるようになるということで、戦後の日本はこの段階を当然のごとく目指し朝鮮(戦争)特需に始まる一連の経済成長を経て、最低レベルの総中間層化を成し遂げます。
 では、人間が生きていくために最低限のものを手に入れるとどうなるか?
 基本的には使い足りないお金をブランドなどの消費の多様性に使い出します。これが脱工業化社会の大きな特徴です。脱工業化社会というのは産業の構造において、情報や知識、そしてサービスなどの第三次産業が占める割合が高まった社会のことです。
 次の社会流動化ですが、これはかなり難しいです。感覚的に言えば現在の日本に始まりだした社会状況、アメリカなどであたりまえになっている個人の力がすべての個人間競争社会のことです。つまり、日本式に例えるといままで業種間という枠組みのなかで「会社」と「会社」の競争が行われていたのに対し、BRICsなどの半後進国の追い上げによる製造業の不振、グローバリゼーションの進展に伴う低資金海外労働力の利用などにより、リストラ等の「会社内での競争」ひいては、「個人間の競争」を世界各国の「個人」とするようになった流動化された社会です。
 日本の場合、今のフリーター問題や雇用問題も含め、現状の社会問題の大きな原因とされているのはさきほどの3つの社会変動の中で、総中間層化にこだわりすぎたこととされています。高原基彰さんはこのことを「日本では『みんなが中間層になれるという夢』が消失するタイミングが逸せられたということである。現在はそのツケを払っている状態なのではないか。」と述べています。(高原、2006)
 できるだけ簡潔に高原さんの論を書きます。
欧米諸国が総中間層化の限界を感じ新たな社会論を模索している時期に、日本では村上泰亮の「新中間大衆の時代」(村上、1987)に代表されるように「新中間大衆化」という概念で、終身雇用と年功賃金の特徴を持つ「会社」の絶対性を強調され、会社の枠組みから外れなければほとんどのことが解決されるとされてきました。それは、先ほど書いたような最低レベルの中間層ではなく高い水準を持った所得レベルでの中間層でした。実際、日本は「一億総中流」といったように高いレベルでの総中間層化を成し遂げましたが、その中ではあまりにもうまく総中間層化から脱工業化を成し遂げたために議論されなかった矛盾を多く抱えていました。実は経済発展の大きな原動力になった日本の「会社主義」は団塊世代という人口の大部分が比較的に低年齢であるという、時代的な偶然の中でしか維持できないということが80年代には明らかになっていました。しかし、その後も「会社主義」の絶対性を疑わず、さらには「新中間層」を維持するための用途として、若い世代の流動化、つまりフリーターが歓迎されたのです。高原さんはまったくの疑いを持たないまま、一部の国民を「新中間層社会」維持のため切り捨てたことが、現在の社会における問題の原因としています。
そして、文化への関心が高まる「高度消費社会」において、世代間格差など社会への不安を背景に「古いナショナリズム」がその中に滑り込むことによって趣味化された「ナショナリズム」が育まれました。若者を多くひきつけた背景には、若い世代が1番はじめに流動化されたということです。このような若者の代表が「ロストジェネレーション」と名付けられた1972年から1981年生まれの就職事情が1番厳しかった時期の若者です。(鈴木、2009)このように「趣味的なナショナリズム」が「不安型のナショナリズム」であるという観点から考えれば、比較的に会社内で不安を感じ難かった団塊世代を筆頭にした年齢が上の世代よりは、就職の際から不安を感じていた若者が自らの生活保守主義者となり、「不安型ナショナリズム」を持つようになったと言えます。長くなりましたが、これが若者がより多く保守に引き付けられた要因といえるのではないでしょうか。簡単に言うと、雇用が流動化した社会において不安をより感じるのは若者だったということです。そして、そういった不安定な状況の中、ワールドカップなどで「祭り」をし、いわば不安を忘れる作業に従事するのが2002年に言われた「ぷちナショナリズム」であり、そして嫌韓流などの出版に伴い文化面から趣味化されたナショナリズムが生まれたと言えます。
このように考えると現在、ネット右翼とされているものは文化面から始まった「趣味のナショナリズム」が、同じく文化的であり趣味的である「インターネット」を背景に進化したものと定義ができそうです。そして、このような定義の下で文化面が政治的な関心を持つきっかけであり、その中で人々、特にネットユーザーが右傾化したきっかけが多いことから、先ほど私が述べた「若者の政治的関心は多くない。しかし、政治的関心のある若者は右傾化している。」が導き出されます。
もう少し表現を変えるのであれば、不安を感じる人たちはインターネットなどの文化的な措置から右傾化しやすい。それは若者に限らずと言えます。また、同じくインターネットを背景にする差別的な発言や、そこから発展したレイシズムの起源をここに見るのは間違っていないと思います。荻上チキさんが「『2ちゃんねらー=右傾化した若者』という間違い」(荻上、2007)と指摘しているように、2ちゃんねるがネット右翼の温床とは言えませんが、ネット右翼がファッションレイシストの温床であることは明らかと言えるからです。
これが奇しくも、在特会が発足された前の年である2006年までに出版されたものから考えられる総括です。しかし、起源が趣味であることは彼らの本質が「ファッション」であるという一つの根拠と言えるのではないでしょうか。
次に論を移す前に若者の不安がナショナリズムに至った例として「雨宮処凛のオールニート日本」から雨宮処凛さんの発言を取り上げたいと思います。
雨宮さんは21歳の時に右翼団体に加入した経歴を持ち、現在はプレカリアート(新自由主義化での不安定に晒される人たち)の問題に取り組む方で、いわば、不安型ナショナリズムに陥った先駆けと言える人です。雨宮さんのこの発言には不安型ナショナリズムの形成があまりにもわかりやすく表れていると思います。

「自分は20歳でフリーターで、就職氷河期で、どう生きていっていいのかまったくわからない。正社員にはなれないし、フリーターはきついし。最低限、餓死しない、ホームレスにならない生き方がわからなくなった第一世代だったと思うんです。そうしたら、何かそこと、『学校で教えられない歴史』という、靖国史観みたいなものがすごい結び付いたんです。学校で教えられてきた『頑張れば何とかなる』というのがまったく通用しない時代になっちゃったんで。なんだ、学校で教えられたことは全部嘘だったんだ、と。学校を出て就業年齢を迎えた瞬間に、もうフリーターとしてしか生きられなくなったので、そのことと私が右翼にいったというのはすごく関係があるなと、10年後に自分で分析して、びっくりしましたね」

このように語りながら雨宮さんは自らのことを「多分、愛国でごまかした第一世代」と称しています。まったく単純でない現象を、「格差」などを通して私自身が単純化していることに違和感があるとも思いますが、しかし、雨宮さんを含め、2007年の論座で「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は戦争。」を発表した赤木智弘さんなど「生」の声として「格差」や「若者論」を背景として「ナショナリズム」や「愛国心」を話す人がいるのも間違いなく、若者あるいはネット層の右傾化の根拠の一つとしては社会学的な「若者論」や「格差」の問題があるのは間違いないと言えます。
この現象自体は、レイシズムに関して、もちろん「被害者である加害者」的な部分を強調する要因にもなりますし、また、では社会が悪いといった風にもなりかねません。先ほどナショナリズムの全てを否定するわけではないとしたように、私もまったくもって、若者論においての主役である方々、格差論の主体、ひいてはネット右翼の巣窟にもなりつつある方々に共感できない部分がないわけではありません。しかし、それでも冒頭で論じているようにナショナリズムに順ずる差別的態度の現われ、レイシズムは認められません。
 次に、若干、論をとどめることにもなりますが、不安型ナショナリズムの出現を社会学からのみならず、グローバリゼーションを絡めた時系列的に考えます。






・ナショナリズムとグローバリゼーション
ソ連の解体をきっかけにしたグローバリゼーションの進展は従来の右翼と左翼が持つ特色を大きく変えました。冷戦の時代まで、左翼は古い因習や制度を打破して社会を変えるという革新を大きな特色にしていました。ものすごく大雑把に言えば社会主義の失敗を目にするまではマルクス主義に基づく社会主義革命を至上命題としていたとしていいでしょう。しかし、ソ連の解体を機にアメリカを中心とするグローバリゼーションが進展する中で、いまや革新的な立場は新自由主義が担うこととなっています。つまり、革新や改革といった言葉はもはや左翼の代名詞ではないということです。
それは、新自由主義を推し進めた小泉純一郎元総理大臣の代名詞である「聖域無き構造改革」という言葉に端的に表れているといえます。その結果、いままでは革新的なものを求める人々は左翼に流れていましたが、社会主義に魅力が見出せなくなった反動も付随しながら、革新を求める声が右翼に取り込まれやすくなりました。そして、さきほど雨宮処凛さんの例を挙げたようにいままでの「常識」では左翼に向かってきていいはずのグローバリゼーションの犠牲者が革新を求め右翼に流れるというねじれた現象が起きています。
ここで注目するべきは従来の左翼の構図を簡潔に考えたとき、学生運動に象徴される「反戦・平和」にも、「社会主義革命」の考えにも「ナショナリズム」の要素はほとんどないということです。それは社会主義的考えや反戦・平和運動をするときにナショナリズムの問題はほとんど無視できたのではということです。
私の推測の部分ではありますが、彼ら従来の左翼の中に「ナショナリズム」の議論が潜在的に埋まっていたとしてもおかしくないです。つまり、極端ではありますが「どちらかと言えば社会主義者だが在日朝鮮人は嫌いである」というような人でも当時の対右翼との対立の重要争点を考えると左翼サイドにいたとできるのではないでしょうか。そして、そういったナショナリズムやレイシズムは争点にあがらないという意味で無自覚であったのではとできないでしょうか。
もちろんこれは極端な例であり、論壇において発表をされる知識人といった方々の中ではありえないことだという前提を踏まえなければいけませんが、「社会主義者だからどちらかというと左寄りだけど…」といった人が一般社会にいてもおかしくないと思います。
これは政治学者の姜尚中さんが学生運動をしていた当時のことを振りかえりながら話した「理論的に突き詰めていくと、日本の左翼―マルクス主義というものが、民族について理解していなかったことに、だいぶ後になってから気付いたんです。」(姜、森巣、2002)というものから発展し考えたものです。そして、長いので全文は挙げませんが姜さんと森巣さんの対談から、当時のエピソードを考えるに少なくとも学生運動をする若者の中にこういった考えの人もいたとできるでしょう。
また、学生運動に代表される当時の若者たちが持つムーブメントの中で平和という普遍的であまりにキャッチーな運動の動機は多く受け入れられたと思いますが、それが例えばベトナム戦争に反対したビートルズやウッドストックに代表されるヒッピー文化の輸入である面は否めなく、もちろん熱心に反戦・平和運動をした方もいますが厳しい言い方をすれば一般の若者にとっては「お祭り」に過ぎなかったと言えます。そういった、「お祭り」的な盛り上がりの側面は現在の不安型ナショナリズム、ファッションレイシズムにも通ずるものがあります。
 ご存知のとおり、ファッションは「流行」の意味を持ちます。「流行」とは革新的なものに絶えずくっついて回るものです。この革新と流行の関係性から私はファッションレイシズムという言葉をつくりました。なぜなら、この関係性が現在のネット右翼や新興保守主義の土台となっていると思うからです。






・趣味的ナショナリズムの発展
先ほどまでは、屈託のないナショナリズムや趣味的ナショナリズムの誕生背景を見てきました。では、この趣味的なナショナリズムがどういった経緯を踏み「ファッションレイシズム」に発展したのか。
 先ほど、2ちゃんねるがネット右翼の温床であるは間違いと言えるが、ネット右翼がファッションレイシストの温床とは言えるとしました。よってここの理解にはウェブ力学的なアプローチをしたいと思います。
 サイバーカスケードという言葉があります。アメリカの憲法学者キャス・サンスティーンが著作「インターネットは民主主義の敵か」(石川幸憲訳、毎日新聞社、2003)で提唱した概念で、「サイバースペースにおいて各人が欲望のままに情報を獲得し、議論や対話を行っていった結果、特定の―たいていは極端な―言説パターン、行動パターンに集団として流れていく現象」(荻上、2007)です。
カスケードとは「小さな滝」の意味を持ちます。イメージとしては小さな滝から始まり水が集まる中、大きさを拡大しながら一箇所へと流れていく現象をウェブ上で起きている現象に重ねたものです。また、カスケードによってさらなるカスケードが起こるといった循環構造や、拡大への圧倒的なスピードを持っているという理解も必要です。サイバーカスケードの結果、ウェブマジョリティはものすごいスピードで広がります。
 サイバーカスケードは毎日、ウェブ上に現れては消えています。特定の掲示板やブログのコメント欄に大量の書き込みが寄せられたり、特定のターゲットの情報を集団で探したり、特定の論点を集団で議論したり、特定の対象に対する言動が集団に感染したりです。
 もちろん、これは善悪両方の側面を持っていてうまく機能した例としては「スティーブさんの自転車を探すオフ」などがあります。かなり省略しますが、これは世界中を自転車で旅していたアメリカ人男性が37カ国目の日本で財布を除く自転車とすべての荷物を盗まれてしまったという記事が産経新聞に掲載された際に、2ちゃんねる利用者が善意でサポートしたという事例です。これは、サイバーカスケードが民主主義に(もっとも、民主主義をなにとするかという議論は踏まえていませんが)うまく適応した事例と言えます。
しかし、わかりやすい例としてブログに対する荒らしがあるように、こういったサイバーカスケードの良い側面がでることは極端に少ないです。それは先ほども書いたようにウェブ利用者の楽しみが「いじめ行為」などの暇つぶしに多々あること、つまり趣味的な側面を脱せていないことと関係していると思います。やはり、サイバーカスケードなどの現象含めウェブは道具でしかないので使う人間に左右されるということです。
ニュースサイト編集者を勤める中川淳一郎さんはネットのヘビーユーザーの特徴を「いじめる対象である『バカ』を見つけたところですぐさま関連したサイトを見つけ出し、それを皆で共有し、挙句の果てにはまとめサイトを作ったり電凸をする人が存在する。どう考えても彼ら暇人である」(中川、2009)としながら、ネットには「怒りの代理人」がウヨウヨいて「クレームという名の粗探し」をして、そして彼らはかなり「暇である」という特徴を挙げています。
これに基づくと、先ほど流動化社会の中で雇用等の機会を奪われ、ある意味では社会からの圧力で暇になった人々がいるということを述べましたが、その暇な人たちがインターネットのヘビーユーザーとなり既存の不安型ナショナリズムというサイバーカスケードに触れることで、そのすそ野が広がっているとできます。ナショナリズムの意見がウェブマジョリティとなる過程はここにあります。
 また、その不安型ナショナリズムがどういう形でより排他的なレイシズムへと変わるのかはインターネットの特性を考えたときに、一つの答えがわかると言えます。インターネットの大きな特性の一つは情報集めが簡単であるということです。
日常、人間はある程度、情報の取捨選択を行っています。それが意図的か無意識かの差はありますが、このこと自体は避けられません。人は興味のある情報を見るし、知りたい情報を収集します。インターネット上では個人がクリックひとつするだけで多くの情報を得ることが出来るという点で、この情報の取捨選択が簡単になります。これは新聞、ラジオやテレビなどと比べると顕著です。
もし、とある小説の発売日が知りたければ、さしあたり値段などより発売日が記憶に残るように検索をし、その作者の他の作品の感想が知りたければ感想に絞って検索をするでしょう。このようにインターネットは検索という方法を用いながら、自らの知りたい情報のみを得ることができます。
これを自らの先入観や考えを満たすために利用したとき、例えば嫌韓と検索したときサーチエンジンは韓国を嫌いになるような情報をいくつも導きだすことでしょう。個人の先入観に基づいて情報を集めその考え方を強化することや、それによって印象深い記憶を持つことはweb以外でもよく起こることです。しかし、インターネットはその情報検索の特性から、そういった傾向をより強く持ち、自分にとって望ましい情報環境が作りやすいです。
それは一つの主張を持つサイトのリンク先の多くが、同じ立場の主張をするサイトであることや、amazonなどで書籍の検索をしたときにサービスとして行われる、この本を読んだ人は他にこういった本を読んでいます、といったものに明らかに主張の偏りが見られることからも明らかです。
つまり、そういったウェブでのナショナリズムのカスケードの中で、先入観から始まった偏見を強固にしていき、その果てにレイシズムに陥るのではとの推測が出来ます。無論、レイシズムに陥るきっかけは人それぞれであり一般化は難しく推測の域を出ない話ではありますが、不安型のナショナリズムが叫ばれだした2000年の前半から、在特会が出現した2007年への時系列の流れに対して、特に一般にインターネットの普及し始めたのが1995年のWindows95発売がきっかけであることやADSL等のブロードバンドの出現時期と照らせ合わせて考えるとあながち空想とは言えないはずです。
 また、小熊英二さんと上野陽子さんの著作「<癒し>のナショナリズム」(慶應義塾出版会)において成された保守団体、「新しい歴史教科書をつくる会神奈川県支部有志団体史の会」のフィールドワーク調査によるアンケートにおいて、「パソコンを日常的に使うか」という質問があります。それによると、比較的若年層が多い中でアンケート回答者29名中、パソコンをよく使う方が18名、仕事場では使うとされた方が3名、あまり使わないとした方が4名、使わないとした方が1名、空欄が3名となっています。(小熊、上野、2003)
この結果はもちろん少数調査なため簡単に結論をつけることは好ましくないでしょうが、インターネット利用者がナショナリズムのカスケードにぶつかりやすく、また、多大な影響を受けたり与えたりしているとできる、ひとつの重要な参考になると言えます。
 ここまではファッションレイシズムの背景について考察を行いました。これがファッションレイシズム誕生の背景に対する私の論ですが、次からは実際のファッションレイシズムに焦点を当てて、その特色を紐解くことにします。






―現状の分析

・在日特権を許さない市民の会とインターネット
 ここからはファッションレイシズムの現状に対する分析を「在日特権を許さない市民の会」の活動を参考にしながら論じていきます。
 「在日特権を許さない市民の会」(以下、在特会)については冒頭でも少し触れました。在特会は在日特権を無くすことを掲げ、2007年の発足から約3年の月日で当初の約7倍の8000人にせまる会員を得ています。
彼らが言う「在日特権」とは、在日朝鮮人、在日韓国人を主な対象とするとしていますが実態はカルデロン一家の問題などのときにもデモを行う、反民主党集会を行うなど、活動は「在日特権」とされているもののみが対象になっているわけではないようです。
冒頭でも書いたように彼らが在日特権と称している主張および、ネット上で在日特権として、むやみやたらにコピペが張られているものに反論することも大部分で可能ですが、この場ではそれをせず彼らおよびネット上にはびこる差別的発言の特徴を分析することにとどめます。
 まず、在特会が持つ特徴といえばインターネットとの密着性が挙げられます。在特会は公式ホームページを持ち、そこが彼らの拠点です。かなりの頻度で更新がされ、ホームページにはフォーラムと呼ばれる掲示板が用意され、またデモの告知なども多々あり、サイバーカスケードの起こりやすい状況が作られているように思います。
また、彼らはyoutubeやニコニコ動画を通して自ら活動をネット上に頻繁に流しyoutubeにおいて在特会で検索すると2990件、ニコニコ動画では444件が表示されます。(2010年2月現在)こういった事柄が彼らとネットの密着性を挙げる根拠です。また、会員の住所別分布を見ると、都市部を中心としながらも会員がまばらにいることも、網状につながるインターネットの特性と重なるといえます。
私がこの文を書くきっかけになったのは、2009年12月4日に在特会と「主権回復を目指す会」が行った朝鮮学校への抗議(彼ら自身はそう言ってる)なのですが、この模様もyoutubeやニコニコ動画に上げられています。この動画において「キムチ臭い」や「スパイの子」など完全に差別発言としか思えないものもあり、すごく気分を害されるのですが、私個人が動画の中でも気になったものというのは、動画の作られ方です。
ニコニコ動画でのものなんかは、オープニングにBGMが用いられるなどかなり強い趣味性が感じられます。私個人としては、その趣味性での行動ゆえに強い怒りを感じます。それは端的に言うと「おふざけ」にしか感じられないからですが、この趣味性というものは彼らのホームページにも通じます。ホームページには「ザイ子ちゃんシリーズ」なる漫画が準備され、動画集なども置かれています。
この趣味性には「趣味のナショナリズム」との共通点を感じられますが、こういった趣味的に感じられる部分に関しても、インターネットとの密着性が表れています。このような事柄から冒頭において私は、ファッションレイシズムを趣味的なナショナリズムがよりウェブ的な性格を強めながら発展したものとしました。
ウェブとの密着性から考えるに、ネット右翼と呼ばれる層ともかなり重なると推測ができます。また、在特会代表がdoronpaというハンドルネームを用いブログの運営をしていること、ほぼ毎日のペースで更新がなされていることは、ネットのヘビーユーザー層とも重なることの端的な表れと言えるでしょう。
上記で、在特会に代表されるファッションレイシズムが持つ趣味性とインターネットとの密着性を明らかにしました。次にインターネット上のコミュニケーションや現象と彼らの行動の関連性の考察をします。






・キャラとしての行動
 例えば、お笑い芸人ナインティナインの岡村隆史さんは普段は極度の人見知りだけど仕事になると途端にハイテンションになるという話があります。また、役者さんは芝居に入ると人が変わったかのような振る舞いを見せたりします。
こういったことを私たちは「キャラが変わった」という言葉で表現します。「キャラ」という言葉は一般的にもよく使われ、人間関係においてかなりの重さを得ています。平たく言えば「面白いやつ」とか「優しい」とか「暗い」とかです。これはインターネットの普及するずっと前からあったことですが、現在キャラとインターネットはかなり強い関わりを持っています。荻上チキさんの論を借りますと、インターネットやケータイはキャラをメンテナンスするツールとして利用されるとできます。(荻上、2008)
ウェブには自身のキャラをプロデュースする機能と他人のキャラを位置づける機能があり、例えばプロフサイトやSNSにおける参加コミュニティなどが挙げられ、キャラ作りという側面はモバゲーやGREEなどにおけるアバターに顕著に表れています。
また、昔からの人間関係における人間の位置づけは基本的に所属する学校や会社など、閉鎖的なものであり、そのため時間的な制限もありました。つまり、学校から帰れば、キャラは失われるわけです。しかし、現状はSNSや学校裏サイトなど常に自らが「キャラ」とつながっているという点も考えるべきところです。
インターネットは匿名性を担保します。この側面からは人間は現実世界で持つ「キャラ」から脱却できます。いわゆる「名無しさん」になれるわけです。しかし、インターネットは現実のコミュニケーションを延長させる側面も持ちます。例にするなら部活の仲間が集まる掲示板であったり、非公式の学校掲示板であったり、クラスの仲間が集まるチャットです。
この場において現実空間でその人が持つ「キャラ」はウェブ上にも付随します。こういった二つの側面が担保されているのが現在のウェブ空間の現状です。そして、いくらウェブ空間において名無しになったところで肉体を持つ自分から完璧に脱却はできません。同じ体で同じ考え方である以上そのキャラの傾向は名無しさんにも反映されるでしょう。
例えば、気を許した仲間の前ではよく喋る人が、バイト先ではあまり喋らないということがありえるように、人間はいくつかの閉鎖的な所属をもっており、それと関係して複数のキャラを持ちえます。ここで私が注目するのは「キャラ」というものが他人という第三者からの目線を考慮して作られるということです。
先述の岡村さんを例にすれば、彼が「芸人」というキャラになるときはカメラ越しの視聴者であるお客、ファンを意識しているだろうし、それは役者さんにしても同じです
また、シェイクスピアが戯曲「お気にめすまま」の中で語らせた「世の中はすべて舞台、人生は演技」という台詞が表すように、第三者を意識した役割としてのキャラは誰の人生にも付随しています。人は好意を持たれたい人を意識したとき、その人の興味に触れるようなキャラになろうとしますし、異性を意識すれば服装に気をつけだしたりします。それは意識的であろうが無意識であろうが、ある程度は避けきれないことです。
「キャラ」は人間同士の間に生まれます。そして、他人からの承認を意識したとき人間はかなり大胆になることもあります。芸人が笑いのために自らのスキャンダルを晒すことがありますが、あれも「笑い」という他人からの承認を意識しての行動と言えます。これと同じような現象はウェブ上でも見られます。
主なものとして2ちゃんねるにおける安価遊びというものがあります。安価とはアンカーの略で、安価遊びとは自分がとる行動や送るメール内容を未来のアンカー先に託し、その通り実行すること、掲示板の書き込みに従い行動をとることです。
この安価遊びでは異性に告白したり奇想天外な行動をしたりしていますが、その多くは通常ではかなり度胸がいる行動や常識を超えた行動です。しかし、掲示板の人間という他人を意識し、その場で言われたからという行動への大義名分を無理やり作り、また掲示板で見ている人たちになにかのエンターテイメント性を与える義務を自らに課すことで、度胸の壁を通り抜けたりして遊ぶわけです。
これは、やはり第三者との関係の中で行動する自分を「キャラ」として作っていると言えます。そして、ウェブの中であれ外であれ、そこにエンターテイメント性によって担保された他人からの承認がありえるとき、ある一定限度は大胆な行動も起こしえるようです。
この点は書籍・映画・ドラマ化し人気を博した「電車男」などにも見られます。作中というのも何か変ですが、この物語において電車男は相手であるエルメスのみを意識しているわけではなく掲示板で見ている人たちのことも意識しながら、また掲示板の書き込みに即しながら行動を起こしています。そして、掲示板による大勢のネットユーザーとの関わりとそれに即した行動から「電車男」というキャラが作られていったわけです。
このようなことから言えることは人間同士の関わりから「キャラ」が作られ、また、そのキャラは強化されていくということがあります。
そして、ウェブはつながりやすさという特性から、刹那的な人間同士の関わりを面識が無い人との間ですら簡単に作られます。さらに匿名性を有し「無くすものが無い」という側面の中では比較的、容易にエンターテイメント性を触媒にした行動もとれます。
その一例が、荒らし行為であったり、個人情報を突き止めて他人を晒すことだったりします。こういった行為は、まちがいなくマナーが悪いのですが荒らす対象や晒す個人もたいていマナーが悪く、履き違えてはいるが正義を行使できるという意味で、ある種の快楽性やエンターテイメント性をはらんでいます。
そして、こういったネットを通じての関わりがいつしか、「不当に対して正義の行為をする名無しさん」というキャラや「怒りの代行人であるネットユーザー」というキャラをウェブ上に作りあげることになりました。それはネットを通じてなら誰もが演じられるキャラとなっています。
「ネット右翼」もこういったキャラに入るかもしれません。在特会に関しても、「在日特権に怒る正義の代行人」というキャラ性が見受けられます。そして、こういったネットと関連したキャラ性の特色が趣味性やエンターテイメント性、快楽性を触媒にしているというのは先の例を挙げたとおりです。
江下雅之さんはネットワークや車の運転において人が変貌することを「眩惑原理にもとづく遊びの感覚をもたらす行為」(江下雅之、2000)としています。眩惑とはフランスの社会学者ロジェ・カイヨウが分類した遊びの要素の一つです。インターネットを利用することで、人間は身体能力以上のことができます。そこには面白さが付いてまわります。通常を越えたコミュニケーションは絶対に楽しいし、自分の考えを発表することにも楽しさはあるでしょう。
それゆえにウェブは暇つぶしにもなれば情報の宝庫にもなりえますが、その遊びとしての特性を持つウェブ上で生まれたキャラにも確実にその特性は引き継がれます。そして、そのキャラたちはネットを通して見ているだろう第三者の影響を能動的にも受動的にも受けながら発展していっていると言えます。
ウェブで生まれたキャラは、匿名性ゆえに大胆な発言をします。また、さきほどもあげたようにその大胆さは快楽性とも結びついています。在特会においても同じようなことが言えます。
彼らは現実においての行動をウェブに流すということによって、現実とウェブの境目にいるとできます。先述の動画でも「スパイの子」といったような、常識ある人間なら絶対に口に出さないであろう言動を平気でしています。その他、テレビで見る地上げ屋かヤクザに通ずる挑発行為を繰り返しています。
もちろん、在特会というカスケードの中で正常でなくなっているという側面もあると思いますが、それ以上に動画の向こう側を意識しているように私には見えます。つまり、動画で流した向こう側からは確実に肯定され承認があるからこその行動であり、その結果がああいった行為が出来る「キャラ」なのではということです。また、すでに偏った目で「在日」が見られるサイバーカスケードが母体の中では、挑発し「在日」側がぼろを出すことで動画を見る「仲間」が喜ぶだろうという意図すら感じられます。
それを実際に行動した人間が意識しているか無意識でのものかはわかりません。しかし、先述の安価遊びも含めネットにいる暇人は「祭り」が大好きです。極端な話、盛り上がれればいいわけです。その盛り上がりには「ネタ」が必須であり、その「ネタ」提供を動画の向こう側にしているように見えるわけです。それは、ニコニコ動画においてコメントが動画に流れること、そして在特会はニコニコ動画を通じて生放送をしたりとその密着性が高いこと、さらにその動画に寄せられたコメントがまさしく極端なものばかりであることなどからもわかることです。
上記から在特会の行動とウェブの関連性を考えると、ウェブ上のカスケードにおいて作られた「在日特権を許さない市民」という「キャラ」はそのカスケードの中で強化され、その「キャラ」を背景に持つからこそ、彼らは大胆な行動や挑発ができるという論が組み立てられます。いわば、「キャラ」によって行動させられているという側面も持っているということが言えます。






・現状への危惧
 先ほどからの論で私はファッションレイシズムが生まれた背景と現状の彼らが持つ特色の双方にエンターテイメント性、趣味性との強い関わりがあることを述べました。また、その背景には社会に対する個人の不安があるということも論じました。
先にあげた宮台真司さんのように趣味性が根本にあるお祭りだから、この現象にあまり危機を感じなくてもよいとする学者の方々も少なくありません。しかし、私はそれとはまったく逆に趣味性と不安が背景にあるからこその危惧感を感じています。
 まず、趣味性についての危惧ですが、そもそも人間は楽しみや快楽につながる趣味になるものを見つけると上達が早いです。サッカーを始めた子はテレビで見るようなエキサイティングなプレーがしたいと練習し、試合でゴールを決めたら、さらに練習にのめり込むでしょう。そうして楽しむことにより、スポーツに限らずとも物事が上達するのは明らかで「好きこそ物の上手なれ」ということわざが残っているくらいです。
こういった物事の上達に趣味性が不可欠であるという視点に立ったとき、ファッションレイシズムが持つ趣味性との強い関係は彼らの勢力を強くする原動力となります。そして、実際にファッションレイシズムは勢力を拡大し、在特会はわずか3年で約7倍の会員増加を果たしました。質的にも先述した朝鮮学校の例のようにどんどん彼らの行為は大胆化しています。私はこういった趣味の特性が与える影響を軽く見る現状に危惧感を感じます。
 そして、なにより彼らの差別的な原動や行動が趣味性、つまり楽しいからということとつながっているとしたら、その本質は極めて悪質です。インターネットにありがちなその場の議論に勝つためだけに他人のマナーをけなすベタ論争を私は好まないです。しかし、ファッションレイシズムは趣味性をもととしながらも、まちがいなく趣味と呼べるものではありません。また、この趣味性にもとづくとした私が考えた物語、つまり私の考える背景、上記の議論を無視したところで、彼らがウェブの中や外でまきちらす、ヤクザ紛いの発言や行動にマナーが備わっていないことは明らかです。
私の論はそれが楽しみを求めた結果でもあるとし、それゆえに私の物語の中では彼らの倫理的な悪質性はさらに高まります。基本的には客観的に論を組み立ててきましたが、私個人としては彼らの行動や発言のほとんどすべてに楽しみたいという快楽性が感じられ、それがなににもまして腹立たしく思えるため主観に頼ったこの危惧をこの場に書かせていただきます。
次に不安型という特徴への危惧へ移ります。先述のとおり、不安型ナショナリズムやファッションレイシズムは総流動化した社会に対する不安が背景にあるとしました。この議論はさまざまな学者の方々が掲げるものでもあり、現象に対する一つの側面としては根拠もある程度は担保されています。その新自由主義の結果としての格差社会とそれに付随した雇用不安の被害者が趣味的なナショナリズムに走るという議論に基づいたとき、私は二つの危惧に直面します。
一つは雇用不安にまつわる危惧で、趣味的なナショナリズムやファッションレイシズムへの参加者の母体が雇用不安を感じる層とするなら今後もこのナショナリズムとレイシズムへの参加者は広がりを見せていくだろうという危惧です。これはかなり簡単な図式で、現在の日本において雇用不安を感じる人はまだまだいることを根拠としています。
日本のフリーターは約170万人、ニートは約64万人、ワーキングプアとされる人は約1000万人、派遣などの非正規雇用者は約1600万人とされていますが、これらの方々は大なり小なり雇用不安を感じているでしょう。そのほかにも日本は毎年3万人以上が自殺する不安大国、ストレス大国です。そして、彼らは社会に「自由な時間」を強要され、また自ら「自由な時間」を求めるのでニートを筆頭に先述の中川さんが言うところの「暇人」です。
そしてその暇人が暇だから、月額5000円程度と非常にリーズナブルな暇つぶしになりえるインターネットを使い、そしてどこかで、例えばネット右翼が書き込んだコピペを読むことでナショナリズム的でレイシズム的なサイバーカスケードにぶつかります。そして、そういったカスケードに楽しみを見出したとき、雇用不安を感じる層は趣味的ナショナリズムとそこから発展したファッションレイシズムの母体となります。
これは単なる推測で書いたものですけど、いかにもあり得そうな流れです。そして、雇用不安を感じているだろう人々がこんなにいる社会において、その不安がナショナリズムやレイシズムに入る要因になるならば今後も趣味的ナショナリズムとファッションレイシズムへの参加者は増えるだろうという危惧を私はするわけです。
余談ではありますが、この社会不安からのナショナリズムとレイシズムの高揚というのは、フランスでも見られた現象です。極右とされる国民戦線党首のルペンが結果として敗れたものの2002年大統領選挙で躍進したときの、彼の支持層は雇用不安を訴える失業者でした。日本との違いは考慮すべきですが、こういった風潮はやはり社会不安とレイシズムとの関連を感じます。
 もうひとつの危惧はファッションレイシズムが参加者の増加と過激なキャラ発展をしていく中で、イレギュラーが起こりえるのではということです。このイレギュラーというのは悪質な犯罪行為のことです。
例えば2008年に秋葉原で起きた無差別殺傷事件の犯人である加藤智大については背景に雇用問題と格差社会の被害者という最大公約数的な物語が当てはめられました。この事件について詳しく触れるつもりもありませんし、作家の重松清さんの考えと同じくこの事件をあまりにわかりやすい最大公約数的な物語に則って雇用問題と格差社会の被害者にするのはあまりに単純だと思います。そして、まちがいなく私は加害者に同情はできません。
しかし、多面性は考慮するべきでしょうが確かに犯行の背景には雇用問題や格差社会という一面があることも否めません。この一面はファッションレイシズムにも同様に重なります。
この事件を雇用問題と格差社会の中で通常の範囲外、つまりイレギュラー的な人間の出現による犯行としたとき、そのイレギュラーがレイシズムを持つ集団で起きたとしたらという危惧を切に感じます。また、人間に個性がある中で例えばスポーツにおいて競技人口が増えることで新たな才能が作りだされるように、集団の母体数の大きさは集団内の個性の自由度を増やします。難しく書きましたが、要は20人のクラスより40人のクラスには2倍色んな人がいるということです。
先ほど、ファッションレイシズムへの参加者、つまり母体数は今後も増え続けると論じました。それは今後、様々な人間が増えるということで、それはさらに過激な発想を持つ人間がでてくることにもつながります。そして、それらはイレギュラー的な犯罪にもつながり得ます。
また、ファッションレイシズムはウェブと大きなつながりをもっています。そのため、中央集権的な機関はまず無く人々は分散します。統率する指導者がいないからです。分散された部分においては様々なイレギュラーが起こりやすくなります。この高度に認められて自由性はウェブ上にルソーやホッフズのいう「自然状態」に近いものをもたらしているからです。混沌状態と言い換えてもいいですが、規律がないからこそイレギュラーは起きやすくなるということです。そして自由は個性の自由につながり、それは過激な人間の出現をも許しえます。
これらのことを根拠に私は現状に大きな危惧を感じるのです。しかし、逆に言えばこれらの根拠における特徴をうまく抑えれば、それに基づき今後の対策をとることもできます。最後にこれらに基づいた対策を展開していきます。






―ウェブマイノリティの戦い方

・ウェブとの関連に基づいて
 先ほどからウェブ上の高度な自由が生み出したサイバーカスケードがファッションレイシズムと強い関わりがあることを明らかにしてきました。そして、その高度な自由による自然状態についての危惧もしました。
私の論の中ではファッションレイシズムの母体はウェブであり、ウェブ上のサイバーカスケードがファッションレイシズムを拡大させるという構図を持ち、またウェブ上の自由は個人の思想の幅を大きく広げることになるのでファッションレイシズムはより過激になりえます。つまり、逆を言うとファッションレイシズムの拡大のためにはウェブ上においてナショナリズムやレイシズムを促進するサイバーカスケードがあることが不可欠と言えます。
 このサイバーカスケードはときに嫌韓を掲げたブログであろうし、ときに在日特権を強調した書き込みであり、また外国人犯罪を非難するものでもあるでしょう。このような、反外国人的な趣旨を持つものがウェブ上で大きな流れとなり存在していることは自明で、その中からことさら在日特権や在日非難に集中して組織化し実社会に顕在化したものが在特会です。
 サイバーカスケードは流れの中である一定程度は人々の考え方を均一化していき、さらに発展させていくという特徴を持つことは先述した通りですが、これは実はウェブ上の特徴にも一般化できます。ウェブには一つの方向へ意見が向かう力学が存在すると江下雅之さんは述べています。これはドイツのコミュニケーション学者、ノエル=ノイマンの言う「沈黙の螺旋構造」の理論を借りたものです。
この理論は前提として二つの仮定をおきます。第一に、各個人が社会の意見分布を認識する能力を持つこと、第二に、自分の意見が劣勢と感じるときは公表をためらい、自分の意見が優勢と感じるときは積極的になることがその仮定です。このメカニズムの中では優勢な意見はさらに優勢になり、劣勢な意見はさらに劣勢になります。
ウェブ上においても劣勢な意見を書いたものが猛烈な勢いで叩かれるのはよく見る光景ですから、このメカニズムが作用していると言えます。そして、このメカニズムが既存のサイバーカスケードに強く作用している、またサイバーカスケードの強大化に尽力しているのは間違いないでしょう。これは、冒頭でウェブ空間の意見の数が集団の中のウェブ参加者の数と一致し得ないとしたことと関連します。
 少し視点を変えて、ネットユーザーの実情に基づきサイバーカスケードへの参加についてグーグルの例を挙げ考えてみます。「ググれ、カス」という言葉がネット上で言われるように、いまやグーグルはグーグル覇権主義と呼ばれるほど日本においても強大です。少しネットに慣れてきた中堅ユーザー以上は好んでグーグル検索を使っています。
エンクイロとディドイットコムとアイツールズは2005年、米グーグルの検索結果ページを閲覧する際に人の視線がどう動くか追跡する調査を行いました。この調査の結果、グーグル検索において人の視線は左上に集中し、検索結果1位から3位までにほぼ100%の視線が集まることがわかりました。そして6位以下は50%、10位のサイトは20%まで落ち込みます。
株式会社アイレップ・SEM総合研究所とジャパンマーケットインテリジェンス株式会社の調査によれば日本版グーグルの検索結果においても同じような視線の動きになるということです。またヤフーではグーグルと若干異なる視線の動きが見られるなど細かい差異はありますが、このような視線が上位に集中する傾向がインターネット検索の特徴のようです。
このような調査をアイトラッキングといいます。つまり、ほとんどのネット検索において下位のサイトは無視されるということです。この結果に基づいたとき、どのような危険性があるか。それは情報の偏りがありうることです。
上位3位までのサイトの立場が同じだったとき一方的な情報しか集まらず、その問題に対する立場は自然と偏るという弊害を持ちます。例えば、グーグル検索した結果、上位3位までのサイトがある法案について賛成意見を持っていたとしたら、たてつづけに三つ賛成意見を読むことになります。この構造もサイバーカスケードの強化に結びつきます。
 このようなウェブ上に存在するいくつかのメカニズムがファッションレイシズムの拡大を促します。それでは、この構造に対してどのような対策ができるか次に論じます。






・ウェブ草の根運動の提案
 アメリカの憲法学者ローレンス・レッシグは著書「CODE」において、人の行動を制約する方法は4種類があるとしています。法、規範、市場とアーキテクチャです。
私たちが、ファッションレイシズムに対抗する上で法に訴えることも、規範、つまりマナーに訴えることもしていかなければいけないでしょう。しかし、それだけではやはり効果が薄いという「法の限界」、「規範の限界」は立ちはだかっていると思います。また、市場に関してもなんらかの規制ができるわけでもなく、方策として市場を利用するのは難しいと言えます。
そのような中で私が注目するのはアーキテクチャです。アーキテクチャとは技術的条件、物理的条件、社会的条件、生物的な条件などを、統計などのデータを利用し周囲環境の整備などにより、人を特定の方向へ誘う力を持つものです。
概念としては難しいですが、例えば自動車の徐行を促したいときに道路にでこぼこを作り半強制的な徐行を促すことや、また未成年のたばこ購入を避けるためのtaspoなどのことです。他に、飲食店の回転率を上げるためにイスの固さや空調を調節したりと、周囲環境整備から半強制的にかつ自覚が必要なく人の行動を誘導することを言います。評論家の東浩紀さんはアーキテクチャに代表されるこのような力を「環境管理型権力」としています。
 私が注目したのはこの「環境管理型権力」です。実生活の現場において個人が環境を管理することは「権力」の名を冠す通り、かなり難しいでしょう。しかし、ウェブ空間は先述の通り高度な自由が認められ、既存のファッションレイシズムのサイバーカスケードに対した「環境管理型権力」の行使も無理ではありません。
そして、母体であるサイバーカスケードに対し一定の効果がでれば今後の参加者上昇とレイシズムの過激化へのブレーキとして機能するはずです。ここで、この「情報管理型権力」を使いウェブ上のサイバーカスケードにブレーキをかけた例を紹介します。
 2002年頃からマスメディア上とウェブ上で「ジェンダーフリー・バッシング」が盛り上がりました。保守的なメディアやオピニオンリーダーは「男女平等には反対しないが、フェミニストたちはいくつか過激である」とした上で、「フェミニストが男女共同参画の名の下で、同じ部屋で着替えをさせようとしている」「フェミニストは人為的かつ強制的に子供たちを同性愛者にしようとしている」「フェミニズムにとって都合の悪い本が不当な圧力によって絶版になった」「ジェンダーフリー教育に毎年10兆円の予算が使われている」などのフェミニストの主張より明らかに誇張された批判を繰り返しました。
こういったバッシングがメディアに出始めた2002年以後、言説の過剰さと分かりやすさからウェブ上にも同様のバッシングが反復され、ネットユーザーたちはフェミニズムバッシングに短絡的にコミットするという現象が観察されました。もちろん、ジェンダーフリー批判の中にも有意義なものがあることを踏まえなければいけませんが、ウェブ上ではこのような過程でジェンダーフリーに批判する立ち位置のカスケードが強固に作られました。
ウェブ上におけるサイバーカスケードの元である記事やコメント、ブログ、サイトなどは一度公開されれば、人為的に消さない限りどれだけ昔のものであろうとウェブ空間に存在し続けます。冒頭で集団のウェブ参加者の数がウェブ空間の意見の数と直接結びつかないとしたのは、この特性とも絡みます。つまり、強固なサイバーカスケードは長期的に存在することになります。
ジェンダーフリー・バッシングにおいても同じことが言え、ものすごい規模のかなり偏ったカスケードが作られることになりました。そういったカスケードを中和するために、先ほどから何度も紹介させていただいているブロガーの荻上チキさんは2005年10月にウェブ上などで頻出する個別の論点を一つずつ検証・回答するQ&Aサイト「ジェンダーフリーとは」を作成し、これを多くの人に見てもらうようにグーグルのランキングを上げるためのリンクキャンペーンを呼びかけました。
それまでは「自由主義史観研究会」、「世界日報」などの内容的に偏りすぎたサイトが上位に表示されており、バランスに欠いていました。そのリンクキャンペーンの結果、数週間で「ジェンダーフリー」で検索すると「ジェンダーフリーとは」が上位に表示されるようになり、半年で数千件のリンクと十数万人のアクセスを獲得、現在でも2位に表示され、2007年当時では数百人が毎日アクセスしていた模様です(荻上、2007)
 この例は、グーグルランキングがサイバーカスケードに対して持つ影響力を意識した運動です。先ほどグーグル検索の際に視線の動きの調査、アイトラッキングについて上位3位までのサイトに視線が集まるという実験結果を挙げながら上位サイトの影響力について説明をしました。
この例において、荻上さんはこのネット検索における特性を利用し、偏った意見の中立のためにランキングを利用したわけです。このようなウェブページのサーチエンジン検索結果を上昇させる方法をサーチエンジンオプティマイゼーション=サーチエンジン最適化 (以下SEO)と言います。SEOは1990年代半ばから始まり、特にサーチエンジンの検索結果が利益に直接結び付けられるだろう企業のウェブページを中心にSEO業者が出現するほど注目を集めています。
株式会社イーエージェンシーのアイトラッキングレポートによると、ネットユーザーの検索についての調査により、ユーザーがなんらかの目的を持ち調査したときは少なくとも上位5位以内に検索結果が無いとウェブページの効果があまり無いとされています。裏を返せば、この結果からは現在でも3位以内を維持しているという点で荻上さんが行ったリンクキャンペーンの有効性がはっきりわかります。
 もうひとつ実例を挙げます。荻上さんの「ジェンダーフリーとは」の以前にすでに行われた有名な運動に「『斉藤環氏に聞く ゲーム脳の恐怖』のGoogleランクを上げよう運動」というものがありました。これは「ゲーム脳の恐怖」というゲームをすると脳がまずいことになるという科学的根拠に乏しい主張をする本が流行した際に、政治の場でも表現の規制などが取り上げられました。この運動はこの風潮に対し精神科医の斉藤環さんによって本の間違いが列挙され批判されたインタビューを掲載したウェブページのランクを上げようというウェブ草の根運動です。この運動によりインタビュー掲載サイトは上位にランクを上げ、現在、ゲーム脳で検索をすると「ゲーム脳Q&A」という「ジェンダーフリーとは」に近いサイトが3位に表示されるなど、「ゲーム脳の恐怖」という言説がある程度、中和されたという事例です。
 これらのようにサーチエンジン最適化は企業の業績UPのみならず、社会問題に絡んだ厚く強いサイバーカスケードの中和に役立ち、ウェブ上の意見を平坦化させる上で一定の効果をあげることができます。これはまさしく、ウェブにおいて個人あるいは草の根でできる「環境管理型権力」の行使と言えます。
私が提言したいウェブマイノリティの戦い方は、これらの事例と概念を参考にしたウェブ草の根運動です。例えば、中和効力を持つサイトを設計しそのランキングを上げるということがあります。このウェブ草の根運動によって、ファッションレイシズムのサイバーカスケードの中和を行うことは、大きな結果をもたらし得ます。
まず、今後のレイシズム参加者増加に対しての抑制が見込めます。次に、顕在化した団体の代表である在特会に関しても、そのウェブとの深い関連ゆえに抑制効果をもたらすでしょう。なにより、この方法はインターネットの特性であるつながりを100%生かし、沖縄から北海道まで(もしかすると全世界)すべての同じ志を持つマイノリティの参加が許され、そのため中和サイトの作成と管理以外の労力はほとんどいりません。
ただし、デメリットもあります。インターネットというものの大きな特性は先ほど挙げたつながりと、もうひとつ可視化があります。ウェブ空間にある情報ならすべて視覚化されるということですが、これと関連したとき、先ほど掲げたウェブ草の根運動のデメリットが出現します。
そもそも、従来のマイノリティはできるだけ目立たないように生きてきました。その集団によって差異はあるでしょうが、マイノリティにとって無闇に目立つことはマジョリティからの大きな反発がありえ、あまり好まれることではありませんでした。先ほどのウェブ草の根運動は自発的に目立つことにつながりかねません。それは、諸刃の剣として機能するかもしれないという点でデメリットがあります。
ただ、しかし、それでも私はこのウェブ草の根運動のメリットはデメリットを大きく上回ると思います。すでに、ウェブ空間はかなり可視化され目立たないようにすること、つまり主張をしないことにより、ウェブマジョリティは勝手なありえないレッテルをウェブマイノリティに貼っています。確かに諸刃の剣となりえる提案ですが、勝手に悪評を書かれ悪評を信じる人がでてくることのほうが、マイノリティにとってデメリットです。
これらの点を考慮し、私はすべてのウェブマイノリティにSEOを利用したウェブ草の根運動を提言します。この方法はことファッションレイシズムに対する我々のみならず、まさしくほとんどの社会問題に関するウェブマイノリティを救えるものです。私は既存の事柄を組ませて書いただけで偉そうなことは言えませんが、様々な方が参考にしてくれるとうれしいです。






・ウェブマイノリティとしての在日コリアンに即して
 ではウェブマイノリティとしての在日コリアンに即してウェブ草の根運動をどのようにしていくべきか最後の議論に移らせていただきます。在日コリアンがウェブ上において感じる大きな問題として私は在日特権の問題、来歴の問題など細かい事項も含めた「存在」の問題を中心にさせていただきます。
これは、ウェブ上の書き込みに「在日にまともなやつはいない」「在日はゴミ以下」「朝鮮人ほど最悪な人種は無い」など少しも議論のないまま真っ向からアイデンティティーを否定したものがものすごく多いことに注目し、私が設定したウェブにおいて「在日」が抱える最大の問題です。
例えば、現在多くの在日コリアンは日本社会に生まれ日本の学校に通い日本社会に生きています。その中で自ら進んで在日コリアンにコミットしていかないかぎりは、特別、自分の存在を「在日」として強く意識する出来事は少ないでしょう。そのような中でインターネットを通し在日特権のコピペなどを見てファッションレイシズムのサイバーカスケードにぶち当たると、自分のアイデンティティーを壊すことにつながります。
在日コリアンのウェブ草の根運動を考えるとき、この点を考慮しないことには効果が薄れます。なぜなら、先ほどの「ジェンダーフリーとは」の例は「ジェンダーフリー」という特定の社会問題について扱いました。しかし、在日コリアンというのは存在する人であり、血肉が流れていない社会問題とは一線を画します。これは「在日」を単なる社会問題として扱うだけでは意味がないということです。
 では、そういった考えに基づき、どのようなウェブ草の根運動を展開できるか。まずひとつは、「在日」全体について争点と立場を整理することがあります。これは「ジェンダーフリーとは」に近いもので、「在日」全体の争点と立場をできるだけ丁寧に整理し、偏りすぎている争点への立場を中和する方法です。
もうひとつは個別の問題に対する争点と立場を整理する方法です。ウェブ上での「在日」と関連する問題の中では最大級である在日特権の問題を例にします。この問題に関して、在日特権があるという立場に反論するウェブページは実は少なくありません。しかし、在日特権というものを扱ったとき、あるか無いかの論争になると些細な箇所を突いて論争が加速し、あまり良い結果になったことがありません。
また、いくら論立てて反論したところで、在日特権に関するコピペなどを見てすでに先入観として「在日」は特権を持つ悪だと思った人間には効果がまずありません。なぜなら、彼らが先ほど述べたように些細な箇所を突いたとき論争に終わりはなく、「在日」側としても外国人と日本人の区別がある時点である程度の差異が用意されているため、差異が無いと証明することは不可能だからです。そのため、先入観を持つ人間は「無いと証明できないなら特権はある」という思考になりがちです。
なにより、在日特権という問題はあるか無いかの以前に「在日」全体の問題の中では、「在日」の負の部分に関した論争なので、在日特権とわざわざ検索する人はすでに負の先入観を持っている可能性が非常に高いです。そのため、個別の問題に関しても消極的目標としての中和を第一に考え争点と立場の整理をする必要があります。
 これらを一端整理してウェブ草の根運動に体系化してみますと、まず「在日」全体について争点と立場を整理したサイトを開設、また、個別の問題についても争点と立場を整理したサイトを開設します。そして、リンクキャンペーン等をして開設したサイトのサーチエンジンランキングを上げることによって、強大なサイバーカスケードの中和を図るという運動の方式になります。これらはもちろん、効果を望めるものです。しかし、ウェブ上の「在日」問題を「存在」肯定の問題として捉えると、かなり消極的です。
そこで私は三つ目の方法を同時に行うことを提案します。それは、「在日」全体の正の部分を強調することです。例えば、「在日」社会は多くのJリーガーを生みました。彼らの活躍はまちがいなく「在日」の正の部分です。私は朝鮮高校から現役で東京大学に行き、学業で活躍する先輩を知っています。先輩の存在は間違いなく素晴らしいものです。先述の政治学者である姜尚中さんの著書「悩む力」はベストセラーになり多くの人が読んでいます。そのほかにも日本社会や国際社会で、様々な分野で活躍する「在日」は少なくありません。
こういった人たちを取り上げるウェブページを作るというのはどうでしょう。「『在日』にも凄い人がいる」「『在日』にも良い人がいる」などある程度は肯定意見がでてくるのではと思います。それは間違いなく、「在日」アイデンティティーへの肯定にもつながります。
これはあくまで私が考えた例に過ぎませんが、先ほどまでの消極的な中和に向かう運動に比べれば、「在日」の正を強調するサイトを作りランクを上げる運動をすることは、かなり積極的な運動です。
かといって、消極的な中和ももちろん必要です。ですから、私が提案するウェブ草の根運動は消極的な中和と積極的な肯定の二つを同時進行で行うことです。つまり整理すると、先ほどまでの「在日」全体と個別の問題においての争点と立場を整理したサイトと、さらに一緒に「在日」の正の部分を強調するサイトを作り、そのランクを上げるキャンペーンをする。それが、私の提案するウェブマイノリティとしての「在日」に即したウェブ草の根運動です。






・本質について
 先述のウェブ草の根運動が私の論の結論です。しかし、いくつかの補足はしなければいけません。
ひとつはインターネットについてです。私はインターネットを悪いものと思っているわけではありません。この文ではインターネットがうまく利用されていない点を挙げているため、インターネットの悪い点が強調されているかもしれません。しかし、それは大きな誤解で私はインターネットについてものすごく便利なものだと思っています。
例えば、私はインターネットが無ければ、レポートひとつ満足に書けるかわからないくらいインターネットの権威に依存しています。しかし、批判を恐れず書けば、結局インターネットも単なる便利な「道具」であると思っています。さきほど、レポートを例に出しましたが、それは大学図書館における本の検索やレポートの書式の検索、あるいはWikipediaなどを利用することで、まさしくレポート作成が容易になるという意味でものすごく便利です。もちろん、それは時間短縮にもつながります。インターネットがある環境の中でしかレポート作成をしたことがない私には、インターネットが無くなったときレポート作成が完璧にできるかわかりません。
しかし、レポートが書けないわけではないと思います。インターネットが出現する以前の学生はその他の手段を利用してレポートを書いていたわけですから、一度、方法さえ覚えれば私にもできるはずです。
このように、私はインターネットをすごく可能性ある有用なものと考えながらも、結局、人が使う以上は人のレベルによっていくらでも化ける「道具」だと思っています。それは、包丁を料理人が使うのと主婦が使うのじゃ、その使い方が異なるというのと同じことだと思います。
そして、もうひとつは社会不安や雇用不安に対する対策を掲げなかったことに対する補足です。ファッションレイシズムの背景に格差社会と雇用問題があるというのは先述の通りですが、ではこれを解決するにはどうしたらいいか。
これに明確な答えを出すことは難しいです。地域社会のつながりとか福祉国家化とか様々な解決策を出しえますが、それは大きな規模のものであり簡単に実現できるものでもありません。ただ今一度、強調するのは社会への不安が背景であることは変わりないことです。
その中で私たち個人ができることは不安をもつ人間に直面したとき、その不安を分かち合ってあげることですし、不安が無い社会をみんなで目指すことです。かなり、理想論ではありますが、理想は理想を語らないうちには実現しないものです。そして実現のために最低限、必要なものは不安を無くそうと社会に属す人々が思い続けることでしょう。
このように明確な答えがだせず、また抽象的になること、そしてこういったことは十分に論じられていることから補足程度とさせていただきました。しかし、この社会不安という本質を忘れないことは絶対に必要だと思います。






―最後に

まず、最後までお読みいただきありがとうございます。ここからはかなり扇動的ですが、ご容赦ください。
私の提案したウェブ草の根運動が現実的かはわかりません。多くの部分で欠陥があるとも思っています。例えば、消極的な中和と積極的な肯定のふたつを同時進行する場合の労力などは考えていませんし、そもそもこの運動の提案自体も安易かもしれません。
しかし、それでも私はこのウェブ草の根運動を少しでも支持が得られれば実行するつもりです。もちろん、その内容についてはまだまだ議論の余地があると思います。しかし、それはこれから議論すればいいことです。それ以前の段階で、本論で上げた危惧と、そして在特会により現実に泣くことになった子供たちのために私はなにかがしたいです。
2009年12月4日、朝鮮学校の事件で私はものすごい衝撃を受けました。私はそのころ、ちょうど在特会に関して文を書いていたのですが、その事件を機にどれだけ自分が甘かったか、まったく自分を追い詰めてない文を書いていたかに気付きました。
それから私は泣くことになった小学校低学年の子達になにができるのか必死で考えました。私は某SNSで日記として文を書いたり、学校に手紙を送ったりしました。しかし、そのどれもがなにかずれている気がしていました。一切の解決につながっていないと思ったのです。
そう思ったとき、自分の中で何をすべきかの答えは簡単でした。在特会についての文を少し書いていたこと、レポートや論文を載せるブログを始めようと思っていたこと、それらが結びついて、私はその日のうちに大学の図書館でキャンパスをまたぎながら、ナショナリズムやインターネットといった類の本をあさりはじめたことを覚えています。そして、約2ヶ月間、50冊以上の本を読み、youtubeやニコニコ動画で100近い関連動画を見て本論についても知識が増えるたびに3回ほど書き直しました。そうして、荻上チキさんの著書と出会い、それを中心に対策を練ることが出来ました。
この文を読んでくださった方々へお願いがあります。私と一緒に「在日」が行うべきウェブ草の根運動の設計をしてください。そして、みんなで一緒に運動を盛り上げましょう。お願いします。私の論を支持していただきたいから、お願いしているのではありません。私の提案より良い方法があればそちらを実行しましょう。私は普段、ある程度は見栄や他人からの評価を気にして生きてきました。しかし、今度ばかりはそんなものはいりません。
私の論を支持していただきたいのではありません。子供たちを守りたい、私を育ててくれた学校を守りたい、そして「在日」を守りたいのです。ですから私の論が足りないと思ったら新しく補充してください。私の論では根本的にダメなら新しい論で「在日」を守ってください。私の論など、そのためのきっかけ程度になれれば十分です。お願いします。本当にお願いします。

すごく長くなりました。最後は感情的にもなってしまいました。これで、書きたいことはすべてです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。





※記事字数制限の関係上、参考文献、参考URLは別記事にしました。